昨日(4月9日土曜日14時)、初台の新国立劇場でリヒャルト・シュトラウスのオペラ「ばらの騎士」(公演3日目)を鑑賞。まだまだコロナ新規感染者数は高止まりしているにもかかわらず、世界の趨勢にならって日本ももう「エンデミック」移行に流れが向かっているが、音楽業界は慎重で今回の「ばらの騎士」でも、オックス男爵役、オクタヴィアン役は予定されていた外人歌手が来日せず、日本人歌手に変更された。


しかし、元帥夫人マルシャリン役は当初発表通りアンネッテ・ダッシュ(1976年ベルリン生まれ)が来日した。独墺系演目では現代の代表的ソプラノだが、今回がロールデビューということもあって意欲的な来日だったのかもしれない。元帥夫人の登場は、第1幕、第3幕のフィナーレだけの登場なのだが、このオペラの骨格を決める重要な存在である。ダッシュの歌唱、演技、そして大柄な体躯からくる威厳ある存在感などさすがだった。第3幕などただのドタバタ劇になるところを、貴族社会の黄昏まで感じさせた余韻はダッシュによるところが大きい。


オーケストラは、サッシャ・ゲッツェル(1970年ウィーン生まれ)指揮の東京フィル。冒頭のホルンの咆哮ののけぞるほどの大音量などかなり管楽器を強調した演奏で、ウィーン的な柔らかさが欲しいと言っても、それはないものねだりで、東京フィルは大健闘でこれはこれでなかなか楽しめた。ちょっとおかしくて笑いを抑えるのに苦労したのは、ゲッツェルの指揮ぶりがこの「ばらの騎士」を十八番にした指揮者カルロス・クライバーのモノマネじゃないかと思えるぐらいに似ていたことだが、これも楽しめた。

似ていると言えば、元帥邸で歌うテノール歌手(宮里直樹)がパヴァロッティ風に大判の白いハンカチをなびかせるのも笑えた。宮里の出番はそれだけだが見事な歌唱で盛り上げた。



日本人歌手では、好色田舎貴族のオックス男爵役の妻屋秀和が水準以上の出来栄えだった。体躯の立派さが味方になった。しかし第1幕での赤いソックス(ゲートル)はなんとかならないものか。

オクタヴィアン役の小林由佳はまずまずの歌唱だったが演技がちょっとカタい。ゾフィー役の安井陽子は歌はともかくメイクと衣装のせいか婚期を逸したオバさん風でオクタヴィアンが一目惚れするとはとても思えない(失礼!)。それともオクタヴィアンがオバ専という演出か。さらにゾフィーの侍女役マリアンネ役(森谷真里)の衣装がかなり変わっていてとても侍女には見えない。このマリアンネという役は、ゾフィーの父ファーニナル(与那城敬)の愛人という扱いなのだろうか。なお森谷真里は元帥夫人役アンネッテ・ダッシュのカヴァーだったようだ。

今回の演出・美術・衣装は2007年からこの新国立劇場で使われているジョナサン・ミラー(演出)とイザベラ・バイウォーター(美術・衣装)によるもので、2011年、2015年、2017年に次いで5回目。きわめてオーソドックスな演出だ。私は今回2015年、2017年に次ぐ鑑賞だったが、いくつか気になる点があった。


まず第1幕の幕切れで一人になった元帥夫人に煙草を吸わせる演出。JTは協賛していないようだしなにかこれに代わる演出がありそうだが。


第1幕(元帥邸)と第2幕(ファーニナル邸)がシャンデリアとカーテン、ソファー、絵などを除けばほとんど同じなのだが、貴族の邸宅と成り上がりの邸宅の違いがもう少しうまく出せればストーリーにさらに深みが増すと思うが。


第3幕の居酒屋の場面の幽霊などは全然恐怖感が湧かない。マスクや照明などでもっと面白く工夫してほしいが。

まあ細かいことを言えば、いろいろあるが、やはりこのオペラは台本(ホフマンスタール)も音楽も本当に良くできていて、水準以上の上演だと満足度が高い。


「ばらの騎士」は、1911年にドレスデンで初演されたのだが、大評判になってウィーンから観劇用列車が運行されたというが、そのわずか3年後には第一次世界大戦が勃発する。この第一次世界大戦では4つの帝国が無くなったと言われる。オーストリア・ハンガリー二重帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国、そしてロシア帝国の4つである。

それに伴って当然貴族社会も崩壊することになった。その足音がこのオペラにははっきりと聞こえている。



なお4月12日火曜日14時から最後(4日目)の公演が行われる。